Q&A LIFE
歯物語

いくつもの
No.005
関東から通院する彼⼥が抱く本当の動機

あらすじ
こどもの矯正治療は、⻑い時間をかけて進めるもの。今回の患者も、そんな⻑い治療の途中にいるひとりだった。遠⽅から定期的に通ってくることになった彼⼥は、ある時少し気になる⾔動を⾒せた。「痛い」と訴えながらも、診察すると特に異常はない。ふとした瞬間にある可能性に気づいた。
矯正治療をはじめ、⻭科治療には技術だけでなく、患者の気持ちや背景までを理解する姿勢が求められる。この出来事を通じて、私は改めてその重要性を感じた。
初めてその子を診たのは、2022年の冬だった。8歳の女の子。お父さんに連れられてやってきた。
「右上の歯が痛むようなんです」
診察してみると、虫歯が進行して神経まで達していた。すぐに治療を開始し、何度か通ううちに、彼女はふとこう言った。
「私、歯並びが気になってて…。ここで治せますか?」
珍しいな、と思った。小学生低学年の頃に、親ではなく、本人が歯列矯正の希望を口に出すケースは多くない。それだけ気になっているのだろうと感じた。
口腔内を確認すると、上顎が狭く、片方の前歯が内側に入り込んでいる。矯正治療の選択肢について話すと、お父さんは少し戸惑った表情を浮かべた。
「実は、私も昔矯正治療をしていまして。でも、途中から通うのをやめてしまったんです」
歯科医に対して、個人的な後ろめたさがあることを伝えてくれた。それでも、娘さんの気持ちを尊重してか「やってみようか」と決断された。
お父さんは几帳面で、診療後には必ず「次の予定はまた連絡します」と言い、その言葉通りにきちんと連絡をくれた。そんなお父さんの姿勢を間近で見ているからか、娘さんも素直で真面目な子だった。診療中も口数は少なく、淡々と治療を受けていた。
治療は順調に進んだ。拡大装置を使い、顎のスペースを広げていく。特に痛みの訴えもなく、計画通りに進行していた。
ところがある日、普段は姿を見せないお母さんも一緒に診療室に現れた。
「夫の仕事の都合で、娘は私と一緒に関東へ引っ越すことになりました」
突然の知らせだった。矯正治療はまだ途中。今後の治療方針も話し合わなくてはいけない段階だった。引っ越し先で信頼できる先生を紹介しようかと提案すると、少し考えてからお父さんが言った。
「2か月に1回なら、通わせられると思います」
その時、ずっと下を見ていた彼女がお父さんの方に顔を向けた。その仕草がなぜか記憶に残った。遠方からの通院が始まった。
引っ越しから1週間、お父さん経由で連絡が入った。
「歯が痛くてスープしか飲めない」
矯正に使う装置の調整後は多少痛みが出る場合もある。状況を確認したところ深刻な痛みではないとのことだったので少し様子を見てほしいと伝え、電話を終えた。ただ、これまでの診療期間には彼女からこうした連絡がきたことは一度もなかったので、そこが気がかりではあった。
1週間後、改めてお父さん経由で「もう大丈夫」との報告が入り、杞憂だったかと安心した。
さらに1週間後、今度は「ぐらぐらしている気がする」とまた連絡があった。もちろんお父さん経由で、だ。
「前のこともありますし、少し気になりますね、もし可能なら少し早いですが来られますか?」とお誘いした。引っ越ししてからというもの、毎週のように連絡が入っていた。環境の変化が影響しているのだろうか。
そして、その翌週、お父さんと一緒に彼女が来た。
診察してみると、歯に問題はない。ぐらぐらもしていない。処置が必要なレベルではないとお二人に伝えた。彼女はお父さんと顔を見合わせて神妙に頷き合っていた。
その時ふと思った。
わざわざ長岡まで来たのは、本当に歯の痛みのせいだろうか?
もしかするとお父さんと過ごすための口実なのではないか。
2か月に1回の診療予定だったのに、1か月で戻ってきた。お父さん経由で連絡が入るのも、その可能性を強く感じさせる。
無口な彼女に確かめるわけにもいかない。もちろん、こちらが勝手に想像して決めつけることはできない。しかし、痛みだけにフォーカスした診療をしていたら、この背景まで想いが至らなかったかもしれない。
そう考え、せっかく来院したのだからとクリーニングをしていくことを提案した。また本来なら1か月に一度来院してくれた方がこちらとしては安心だということもお伝えした。今回の来院が全然悪いことではなく、次回以降、彼女が来やすい状況をつくってあげられればと考えたのだ。
一般的な診療では、「痛い」という訴えがあれば、それに対して直接的な治療を提供する。しかし、「患者の訴え」が本当に身体的なものなのか、それとも心理的なものなのかを考えることもある。
彼女の通院はまだ続いている。あくまでも決めつけはせず、可能性として考えながら、これまで以上に、お二人の関係性に注目しながらコミュニケーションを取ろうと考えている。
あとがき
矯正治療には、技術的な⾯以外にも⼤きな課題がある。特に⼦どもの矯正治療はどのタイミングで開始するかが重要なのは間違いない。だが、それは⼀概に「早ければいい」というものでもない。⼀⼈ひとりの成⻑を⾒極めながら⾏う必要があり、また、治療にかかる経済的負担も無視できない。
⻭科医の間でも、子どもの矯正治療に対するスタンスは分かれている。成⻑期前に介⼊し、抜⻭を避けたり、顎の発育まで含めたアプローチを重視する⻭科医もいれば、成⻑が終わるまで待って効率的に治療を⾏うべきだと考える⻭科医もいる。お⼦さん⼀⼈ひとりの成⻑など測り切れない影響要因もあるため、エビデンスも完全に統⼀されたものではなく、最終的な選択は親の判断に委ねられることが多いのが現状だ。
また、親にとっては「治療してあげたい気持ち」と「お⾦や治療負担」の葛藤もある。
特に矯正治療は⾼額になりやすく、必ずしも全ての家庭が気軽に選べる治療ではない。そのため、「本当に必要なのか?」と慎重に判断するケースも多く、我々としてもその判断には丁寧に寄り添うことを⼼がけている。
最終的にどんな決定をしても、それぞれのご家庭でちゃんと考えて納得して選んだ答えを、僕は尊重したいと考えている。
さらに、今回のように、治療そのものではなく、治療に通う背景にも様々な事情が絡むこともある。治療が「⻭をきれいにする」以上の意味を持つこともあるのだ。患者さんがどんな思いで診療台に座っているのか、そこに想いを馳せることを忘れずにいたいと改めて思わされたできごとだった。
執筆者:内藤(⻭科医師)