Q&A LIFE
歯物語

いくつもの
No.008
「全ての歯を抜きたい」と訴える患者さんと一緒に探ったゴール

あらすじ
ある日来院した患者さん。
彼の希望はただ一つ、「今ある歯を全部抜いてリセットしたい」というもの。
健康な歯まで抜きたいと訴えるその真意は?常識では想像できないその想いに、どう向き合うべきか?
新潟県長岡市にあるキューアンドエー歯科医院。
その名の通り、患者さんはなんでも質問でき、それに対してちゃんと答える姿勢を大切にしている歯科クリニックだ。
ある日の午後、初診の患者さんが診察室に入ってきた。
50代の男性。
どこかしら決意を感じる表情が印象的だった。
「先生、僕の残っている歯、全部抜いて欲しいんです。お金はかかっても大丈夫ですから。」
彼の希望に驚いてしまった。
片側の奥歯が2本抜けてはいるものの、彼の口の中にはまだまだ健康な歯が並んでいたからだ。
どんな事情を抱えているのか質問を繰り返したものの、確認できたたのは「全部抜いて、全部リセットしたい」という彼の固い意思だけだった。
彼の真意を推測してみる。
歯だけでなく、過去に刻まれた心の傷や後悔を一度リセットし、新たな自分を取り戻そうとしているのではないか。
たとえそうだったとしても、健康な歯は取り戻すことのできない大事な資産。
それをあえて抜くことのリスク、後になって後悔しても元通りにはできないことを何度かの診察を通して丁寧に説明した。
だが、彼の希望は揺らがない。覚悟を決めて来院したのだと思われた。
「全部抜いてしまえば、もう歯の治療をしなくても良いんですよね。」
すべての歯を抜くと総入れ歯になる。
その点には彼も同意していた。
言葉にするのは簡単だが、総入れ歯での生活は想像以上にストレスの高いものになる。
だから歯のことでストレスがなくなるかといったらそうではない。
今より生活の質は下がる可能性の方が高い。
そこで、一度仮の入れ歯で体験してもらうという手段に思い至った。
もちろん残った歯は残したまま、総入れ歯型マウスピースを作成し、今の歯の上に被せるのだ。
「一度これを装着して、本当に歯を失ったらどんな感覚か味わってみませんか?」
幸いにも彼はこちらの提案を受け入れてくれた。
総入れ歯体験の期間を経て、再び彼が診察に訪れる日。
診察室に入ってくる彼の表情はどこか穏やかだった。
「説明していただいていたことが、身体で感じられました。自分の歯の大切さ、今ならわかります」
結局すべての歯を抜きたかった理由はまだ聞けていない。
だが、体験後の彼の態度は目に見えて変化し「歯を全部は抜かない」という選択肢に理解を見せてくれるようになった。
「今回は先生の提案でひとまずやってみます。」
最終結論は出ていないが、概ね部分入れ歯での治療を進めることで合意できた。
もし総入れ歯にしていたら自費診療で100万円近くかかるところ、この方針なら30万円程で抑えられる。
費用も心の負担も最小限に留めることができそうで、今は少しほっとしている。
あとがき
実は、彼の治療方針については自分でも自信が持てずにいた。そこで後日、他の歯科医の先生たちに相談したところ、「常識では考えられない治療だから、うちなら断る」と皆に言われた。
保険外診療になる上、後々トラブルになる可能性も高い。当然の判断だと思う。
だが、もし私たちが診療をお断りしていたら、彼は対応してくれる医院を求めてさ迷っていたのではないか。誰かが、彼の想いを預かる必要があったのだと今は思えるようになった。
正論だけではたどり着けない答えがある。一度定めた心の方向性は簡単には変わらない。でもふとした体験で思い込みや前提が変わることもある。
ちょうど今回のエピソードのように。
異なる常識を正面からぶつけ合うのではなく、かといって相手の言いなりになるのでもない。
理想的な治療の形は、不確かな状況を抱え合いながらQ&Aを積み重ね、お互いにとって理想的な道を探す過程で生まれてくるのかもしれない。
執筆者:内藤(⻭科医師)