Q&A LIFE
歯物語

いくつもの
No.007
⼿術⼊院に間に合わせた⼊れ⻭と、ある夫婦の決断

あらすじ
⻭科治療のために当院を訪れた⼀組のご夫婦。実は奥様は⼤きな⼿術を控えており、その⼿術を成功させるにはご主⼈の⼤きな決断が必要だった。
⻑年病に苦しみ、⽇常⽣活にも⼤きな⽀障をきたしていた奥様。⼿術を受けることで、それまでのつらい状態から解放される可能性があった。
ご夫婦にとって、⼈⽣を⼤きく変える機会が迫っていた。
「先⽣、私、⼤きな⼿術を控えているんです」
奥様が初めて来院したとき、その⾔葉に驚いた。
彼⼥は以前から⻭の治療を続けていたが、どうしても改善しきらない症状があった。
そして、それを今のうちに治療したいという。
理由を尋ねると、彼⼥は少し⾔葉を詰まらせながら、静かに話してくれた。
「実は、夫が私に……」
そこから語られたのは、夫婦の強い絆と覚悟の物語だった。
奥様の体には、⻑年向き合ってきた病があった。
その影響で、彼⼥の体⼒は奪われ、⽇常⽣活すら困難な状態になっていた。
少し歩くだけでも息が上がり、階段を上るのも⼀苦労。
簡単な家事すら、ご主⼈の助けがなければできないほどだった。
「靴ひもがほどけても、結ぶためにしゃがむのもつらくて……。少しでもよくなるなら、なんでもしたいんです」
彼⼥の声には、これまで積み重ねてきた苦しみと、それでも前を向こうとする強い意志があった。
実際、彼⼥はその病を克服するために膨⼤な調べ物を重ねてきていた。
根本的な治療のためには⼤きな⼿術が必要で、それにはドナーが必要だった。
10 歳年上のご主⼈は迷うことなく、⾃分がその役割を果たすことを決めたと聞いた。
しかし、いくつもの医療機関を回ったものの、「倫理的な問題」を理由に断られることが続いていた。
ドナーとなるご主⼈が⾼齢なこともあり、受け⼊れる側としても万が⼀の事態を想定し⼆の⾜を踏んでいたようだった。
それでも、ご主⼈は「妻を助けたい」と決して諦めなかった。
諦めずに探し続けた結果、ようやく⼿術を引き受けてくれる病院が⾒つかり、夫婦そろって⼊院することが決まった。
奥様は「⼿術を成功させるために、できることはすべてしておきたい」と考え、以前から気になっていた⼝腔内の状態を万全にするために当院へ相談に来たのだった。
たとえば⼼臓病など⼤きな⼿術前には⼝腔内チェックを実施する病院も増えている。
そして当然、⻭周病も進⾏すると全⾝の健康に影響を及ぼすこともある。
⼿術を控える⾝として、少しでもリスクを減らしたい。
そんな思いが、彼⼥をここへ導いたのだろう。
しばらくして、今度はご主⼈が来院した。⻑年使っていた⼊れ⻭が壊れてしまったのだ。
「せめて、⼊院中だけでも何とか使えるようにできませんか?」
その表情は穏やかだったが、そこには深い愛情と決意がにじんでいた。
私たちは、できる限りの修理を施し、ご主⼈が少しでも安⼼して⼿術に臨めるよう対応した。
ところが、いよいよ⼿術⽇まであと数⽇というタイミングで急遽⼿術が延期となった。
奥様が感染症にかかってしまったのだ。
それまで積み重ねてきた準備がすべて⽩紙に戻るかのような状況だった。
そんな中でも、ご夫婦は前向きな姿勢を崩さなかった。
ご主⼈はこの機会に⼊院中でも安⼼して使えるように、⼊れ⻭を新しく作れないかと相談してこられた。
⼿術に向けて最善のコンディションで臨むため、そして少しでも快適に過ごしてもらえるように、私たちも細部まで調整を重ねた。
結局⼿術前に⼊れ⻭もお渡しでき、改めてお⼆⼈は⼊院された。
そして数週間後、無事成功したと先に退院されたご主⼈から聞くことができた。
「無事に終わりました。傷は痛むけれど、やり遂げました」
ご主⼈は事実を淡々と⼝にするだけだったが、その表情は晴れ晴れとしていた。
奥様のために⾃分ができることを果たした。
そのことが彼の中に⼤きな満⾜感をもたらしているように⾒えた。
⼈は誰かを助けられたとき、⽣きがいを感じるのかもしれない。
彼の姿から、そう思わずにはいられなかった。
後⽇、退院された奥様とお⼆⼈で来院された。
「まだ傷は痛むけれど、終わってホッとしました」
奥様も穏やかな表情でうなずいていた。
ご主⼈の⽬には、無事に奥様が元気でいることへの安堵と、役⽬を果たした満⾜感が宿っていた。
あとがき
「シェアード デシジョン メイキング(Shared Decision Making/SDM)」という考え⽅がある。万⼈にとっての正解がない状況で、患者さんと医療者が⼀緒に後悔のない判断に⾄るための⽅法論だ。(詳しくはこちらの記事を参照ください→https://qadental.com/life/life002)
ご夫婦の姿を通じて、シェアード デシジョン メイキングの⼤切さ、「医療の選択」と「患者の意思決定」について深く考えさせられた。医学的な基準や倫理的な判断がある⼀⽅で、患者⾃⾝の価値観や家族の想いもまた、決して無視できるものではない。だからこそ、枠にはまらないコミュニケーションが求められる。
今回のケースは、単なる⻭科治療を超えた、家族のあり⽅や医療の本質に触れるできごとだったように思う。
どちらかと⾔えば⻭科医院は、⽇常的な場所かもしれない。私たちがすぐに直接的に命にかかわるような場⾯に携わることはほぼないと⾔っていい。しかし、患者さんと⽇常的に関われる場所だからこそ、節⽬を迎える患者さんの⼈⽣の⼀部を共有いただけることもある。
当院での⻭科治療を通してお⼆⼈が⾒せてくれた深い思いやりと決断。患者さんお⼀⼈おひとりが抱える事情と感情に寄り添う⼤切さに、改めて想いを馳せるできごととなった。