Q&A LIFE
歯物語

いくつもの
No.009
歯の治療が、生きる力をONにすることもある

あらすじ
数年間の引きこもりを経て、再出発への一歩を踏み出そうとした20代女性が来院された。
再び人や社会との接点を築くため「まずは歯を取り戻したい」と勇気を振り絞ったその決断が、歯科治療をきっかけに心身の回復へとつながっていく様子を、私は診察のたびに目の当たりにした。
キューアンドエー歯科医院では、口腔内だけでなく患者さん一人ひとりの事情にも目を向けながら治療を進めている。
今回紹介する女性患者さんも、深刻な心身の問題を抱えたまま来院した一人だ。
彼女は鬱(うつ)症状から数年間家に引きこもり、外に一歩も出られなかったそうだ。
そんな中勇気を出して自宅を出て当院を訪れ、「まず歯を何とかしたい」と緊張した面持ちで話してくれた。
「ボロボロだけど診てもらえますか?」
診察室で口を開けてもらうと、歯の大半はエナメル質が溶け、象牙質が黒く変色していた。奥歯は咬合面の凹凸が消失していた。
20代でここまで全体的に進行した虫歯は極めて稀だと感じた。
「ただ歯磨きができないだけではこのような口の中になるだろうか…。」
あまり知られていないが、「心理的ストレスが歯質に影響を与える」という説がある。
ただのケア不足では説明できないこともあり、心身は深く結びついているのだと改めて感じた。
そしてさらに知られていないが、実は逆もあり得る。
歯の治療が心を変えていくこともまた感じることがあるからだ。
「ボロボロだって大丈夫。よく頑張ったね。」
確かに、歯の状況は歯科医師でもなかなかお目にかからないであろうかなり難しい状況だった。
一つひとつの歯の崩壊もあるが、歯の位置や歯肉の形も変形していて、おそらく咬み合わせも元気な頃とは大きく変わってしまっているであろう状況だった。
ただ僕は、何とか変わろうとする彼女の勇気に何とか応えたいと思った。
「実は、久しぶりに人と会う約束をしたんです」
彼女に事情を聞いていくと、小さな声で家を出ることになったきっかけを教えてくれた。
その言葉を受け、何とかそれまでにまず前歯に仮歯を装着し、見た目を整える処置をおこなうことにした。
見た目をある程度整え、鏡を手渡すと、彼女の瞳にわずかながらも確かな光が戻ったように見えた。
今回の治療はひとまず、見た目だけを一時的に治す治療。
この処置中、彼女は痛みを全然訴えなかった。
「やはり虫歯の進行で、歯の神経は死んでしまったのだろう」
この時点で僕は彼女のほとんどの歯は、神経の治療(根管治療)が必要になると予想していた。
「久しぶりに人と会うことができました。ありがとうございます。」
後日、何とか久しぶりに人と会うことができた彼女の表情は、初診時よりも明らかにやわらかくなっていた。
彼女はその後も歯の治療に通い続けてくれ、虫歯の処置や詰め物・被せ物の適正化を段階的に進めていった。
治療を重ねるごとに、彼女から生きるエネルギーのようなものを感じるようになっていった。
歯の治療だけでなく、ずっと行きたかった美容院や皮膚科にも足を運ぶようになり、人と会う自信をつけ、友人との約束も果たせたという。
彼女の診療中、生きる力ってすごいなと感じることがあった。
何度目かの来院の際「歯がしみるようになった」と彼女が報告してくれたのだ。
それを聞いて、初回の処置時には歯の感覚がマヒしていたのだと知った。
しみるという感覚は、神経と感情が目を覚ましはじめた証。
一度は失われた身体の機能や感覚が回復してきているのだった。
だから今回、神経の治療(根管治療)が必要だと思っていた多くの歯は、神経を残す治療に切り替えた。歯にとっても体の健康にとっても神経を残せるのならそれに越したことはないのだから。
「通院してから体重が5kg増えたんですよ」
今は、以前の細くこわばった肩はすっかりしなやかに戻り、健康的な笑顔を見せてくれている。
あとがき
彼女は、歯科治療をきっかけに、自分の人生を取り戻そうとしていた。
その姿を間近でみて、やはり歯の治療が心を変え、生きる力をONにすることがあることを僕は確信した。
ただそうなるためには条件があるようだ。
その条件とは、治療者と患者さんとのあいだに信頼の空気が満たされていること。
信頼の空気で満たされた中で積み重ねられた歯科治療は、ただ歯を治すだけではなく、その人の人生を前向きに変えていく歯科治療になる。
もう少し具体的にいうと、治療者と患者さんのあいだできちんと関係性が築けた上での歯科治療は口腔内の基本機能を回復させるだけでなく、患者さん自身の自己肯定感や生活意欲をも支えることがあるということ。
彼女の劇的な変化を目の当たりにし、初回の治療が彼女の中にある何らかのシステムに作用し、生きるという機能がONになったように感じた。
特に顔の中心にある歯が整うと、根源的なエネルギーにも影響しやすいのかもしれない。
(脳の領域でも口に関わる領域はかなりの部分を占めていることからもその可能性は非常に高いと考えられる。)
この時、治療の結果(歯がきれいになったこと)はもちろんだが、信頼の空気で満たされた関係性の中での診療体験が患者さんの生きる機能を高める。
つまり「何をやるか」だけではなく、「どこで誰とその時間を過ごすか」ということも大事になる。
だから僕は今、そんな信頼の空気づくりを医院全体の構造として落としこみ、空気を育てる文化をつくっている。
これからも、彼女のように新たな人生に向けて一歩踏み出す勇気を持つ患者さんと寄り添い、心と体の健康を包括的にケアしていきたいと思う。ここでお伝えした彼女の新たな一歩が、同じように悩む誰かの希望になることを願って。
執筆者:内藤(⻭科医師)