Q&A LIFE
歯物語

いくつもの
No.010
「噛む」に秘められた力

あらすじ
「最近、噛めない子が増えている。矯正をしても歯並びが戻ってしまう。遺伝だから仕方ない。」
患者さんたちの口から、そんな言葉をこれまでに何度も耳にしてきました。
歯科医療に関わる人たちの間でも同じ言葉を聞くことがあり、私自身もどこかでそう諦めていた部分がありました。
けれど、ある女の子と過ごした数か月が、その思い込みを少しずつ変えてくれました。
ただ歯をきれいに整えるのではなく、お口のはたらきを育てることで、患者さん自身の生き方や笑顔を支えることにもつながる。
そう感じるようになったのは、この小さな出会いがきっかけでした。
ある日、キューアンドエー歯科医院に来院した10歳の女の子を、私が担当することになりました。
まじめな印象の女の子で、他の医院で矯正をしていたと話すとおり、見た目の歯並びはとても整っていました。
ちょうど、保険診療で発達不全症の検査ができるようになった頃でしたので、お声がけしたところ「保険診療なら」と検査を受けてくれることに。
検査をしてみると、噛む力や舌の動かし方に少しアンバランスな部分が見つかり、毎月のメンテナンスを通して、口腔機能のトレーニングを続けていくことになりました。
まだ通い始めの頃、彼女はどこか緊張した表情で、あまり笑顔を見せてくれませんでした。
メンテナンスのたびに鏡を使って口を動かす練習をしても、視線は下を向いたまま。
心の距離がなかなか縮まらないな、と感じる日々が続きました。
それでも私は、毎回ほんの少しでもできたところを見つけて、声をかけ続けました。
「上手にできたね」
「前よりもスムーズにできているね」
お手本を見せながら動きのイメージを伝え、ときにはお母さんにも協力してもらい、一緒に練習してもらいました。
お母さんはとても優しく見守ってくださり、「実は娘も、家でも頑張るって言っていましたよ」と教えてくれたりもして。
三人で少しずつトレーニングを積み重ねていくうちに、無表情だった彼女が、ある日ふっと笑ったのです。
その瞬間のことは、今でも鮮明に覚えています。
わずかに動いた口角と、かすかな笑顔から伝わる小さな自信。
「この子の中で、何かが変わり始めているのかもしれない」
そう感じました。
※※※
こんなふうに子どもの患者さんと向き合えるようになったのは、ごく最近のことです。
実は以前まで、大人と違ってコミュニケーションが取りづらく、どう接してよいか分からずに苦手意識を持っていました。
「子どもの治療は難しい」と感じていましたし、自分にはあまり向いていないのかもしれない、と思っていた時期もあります。
そんなある日、SNSで子どもの口腔発達に専門的に取り組む歯科衛生士さんの投稿を見かけました。
「子どものお口の成長には、適切なトレーニングによる習慣づけが必要」
その一文に、心をつかまれたような気がしました。
それをきっかけに、夜や休日の時間を使って、少しずつ学びを始めました。
大阪や東京までセミナーに通い、オンライン講義を受け、時には知らない土地の学会にも参加して。
たくさんの先生方や仲間と出会いながら、新しい知識を学ぶたびに、自分の中に新しい視点が生まれていくのを感じました。
そしてありがたいことに、医院もその挑戦を応援してくれました。
「それはきっと、この先の柱になる分野だから」と、さまざまな面から支えていただきました。
環境にも恵まれて、私は少しずつ、子どもの患者さんへの苦手意識を乗り越えていけたように思います。
学びを深めるうちに、「歯並びは遺伝で決まる」という考え方が、必ずしもすべてではないことを知りました。
舌の位置、唇の力、噛み方、呼吸の仕方。
それら一つひとつの習慣が、日常の中で積み重なり、お口の形を、そして表情をつくっていくのです。
矯正をしても後戻りしてしまう子がいるのは、歯の位置だけを変えて、「お口の使い方」を変えていなかったからかもしれません。
そう思うようになってからは、子どもたちの動作一つひとつに、以前とは違う視線を向けるようになりました。
「どうやって噛んでいるのか」
「どんな姿勢でごはんを食べているのか」
「息の流れはどうなっているのか」
そんな小さな観察の積み重ねが、今では私の仕事の大切な時間になっています。
※※※
トレーニングを続けていくうちに、あの女の子の表情が少しずつ変わっていきました。
唇の力が安定し、口の動きが自然に整い、笑うことも増え、その表情も柔らかくなっていきました。
半年ほど経ったころ、お母さんが教えてくれました。
「最近、歯磨きがとてもしやすくなったんです。それに、娘がよく笑うようになって」
その言葉に胸が熱くなりました。
お口の機能を育てることは、ただ噛む力をつけることではありません。
もしかすると、自分を自分の力で輝かせることなのかもしれない。
表情が変わるということは、その子の中で心の余裕や自信が芽生えているということ。
その小さな変化の積み重ねが、私にとって何よりもうれしい瞬間です。
あとがき
噛むという行為の中には、生きる力、話す力、笑う力、たくさんの「はじまり」が詰まっているのだと思います。
だからこそ、子どもたちの口腔機能を支えることは、その子の未来を支えることでもあります。
これからも、子ども向けの口腔機能支援に力を入れ、学びを重ねながら、この大切な知識を少しでも多くの方に届けていきたいと思っています。
私たちが学んだことは、院内で定期的に発行している冊子『もんじゅの森』にもまとめ、お子さんの成長に役立つ情報をお届けしています。見かけた際には、ぜひお手に取っていただけたら幸いです。
日々の診療の中で出会う一つひとつの笑顔を糧に、これからも、丁寧に、まっすぐに、子どもたちのお口と向き合っていきたいと思います。
執筆者:E.T 歯科衛生士・口腔機能支援士
-------
【院長からのコメント】
僕たちは、患者さんとの良い関係性のことをデンタルシップと呼んでいます。
デンタルシップとは関係性の器に信頼の空気が満たされた状態のこと。
そしてその器の形は、誰と誰がつくるかによって、一つとして同じものはありません。
さらにお互いの間で育っていくものでもあります。
今回の物語に登場する、担当衛生士E.Tさんと10歳の女の子が育んだ関係性も、その大切なデンタルシップの一つです。年齢も背景も違う二人が向き合い、想いを重ねるたびに、その器は少しずつ形を変えながら育っていったのです。
丁寧に寄り添い、少しの変化も見逃さず、積み重ねた時間が、あの子の笑顔や自信につながっていきました。
いろんなデンタルシップの形があると思いますが、日々一生懸命に患者さんと向き合っているE .Tさんは、これからもたくさんのデンタルシップを育ててくれると確信しています。
僕自身、E.Tさんのその姿を心強く、そして誇らしく感じています。